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気付いたら絵を描いていた。幼稚園の頃、自分は将来売れない絵描きになるんだと決めていた。どうして売れない絵描きになりたいの?絵が好きなら売れる絵描きになれば?と、祖母に言われたけど、絵描きは死んでからじゃないと売れないからだよ、と応えたことをよく覚えている。あれから30年、私は売れない絵描きになりつつある。

幼少の頃から、友達と遊ばずに独りで絵を描いたり本を読んだり、音楽を聴いて過ごすのが好きだった。いまも変わっていない。中学3年の時、イジメられっこだった私は両親と担任との気遣いで普通高校ではなく美術学校の高等科を勧められ入学した。その頃から本格的に絵を描き始めた。卒業後も他の美術学校を数か所通いながら、自分が本当に心から表現できる描き方を探していたような気がする。学校の知り合いは皆まともな生き方を選んで絵から離れていった。絵を諦める時ってどんな時だろうねって誰かが言ってたけど、私は絵が心の支えで絵と共に生きていかなければ生きられないと思ったから、絵から離れることなど思ったことはない。いつの間にか自分の周りにいろいろな美術仲間が出来て、造形教室とも出会うことができた。薄っぺらではなく深い画面を描く仲間が沢山できた。私はモノトーンに近い地味な絵を描く、綺麗な作品はまだ描いてはいけないと思っている。幼少から今までの様々なモヤモヤを出しきってから明るい絵を描きたい。虐待、イジメ、友達のいない10代の10年間が今の自分の土台になっているようだ・・・絵の中がたったひとつの私の居場所で、本が友達だった。

とうとう精神科に通ったのは30歳になる頃。こんな歳になっても何処へ行ってもバカにされてしまう自分が嫌いで悔しくて苦しかった。だから、自分を包丁で傷つけた。血が滴るのを暗闇のアパートでひとりで見つめていると落ち着いた。ただ真っ黒に塗りつぶしただけの画を何枚も描いたりして、暗闇の画面に入り込んで落ち着いた。そうして、だんだん社会から受け入れられない人間になっていった・・・。薬の副作用で暴力的になり、会社の物を目茶苦茶にしては、またクビになるという事を繰り返した。借金も膨らまし、親に頼らざるを得なくなった。親に頼らず自立して生きられるからと家出したのに、結局頼ってしまったことが悔しかったが、心配してくれる両親の存在がなぜか暖かく感じた。こんなに素直になったのは初めてだ。

事故で左手拇指第一関節上を失った時、父親は毎日メールをくれた。嬉しかった。もう少し心を開こうかな・・・と思った。今、精神障害を極秘にしながら介護福祉施設で働いている。ずっと薬に頼らなければならないかもしれないし、どうなるか分からないが、今はそれでとりあえず生活できるようになっている。働けなくなった時に両親から借りた大金は、少しずつ口座に返している。しかし、またいつ爆発するか分からないし、クビになるか分からない不安を抱えながらも、絵を描けるという生きがいを天からの贈り物だと思いつつ描き続けていく。絵を描ける幸福、それを陰ながら応援し続けてくれる両親、発表の場を提供してくれる方々や先生、そして共に苦しみ描き続けていく仲間達・・・・・・ありがとうございます。

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