「私の絵について」
私の絵には、人物は必ずといっていいほど登場します。たいてい一人です。その人物は、私自身であり私の投影です。先日ある人に、次の描く絵の下絵を見せたところ、写実ではなく下手な絵でも丁寧に描けばいい、どんどん、と言われた。そのことについて考え、思った。
私が絵を描くとき、ある程度の写実、リアリティーが必要になる。その人が実際に存在すると思って絵を描きたいのです。その人に居てほしいのです。それにはある程度の写実性は必要なのです。下手な絵だと感情移入できない。居心地が悪いのです。なにも下手な絵が悪いということではないのです。技術的に下手な絵でも感動する絵はたくさんある。技術的に上手い絵でもつまらない絵はたくさんある。例えばゴッホの絵はあまり上手いとは言われない。むしろ下手という人もいる。私はゴッホの絵は下手だとは思わないし、思えない。彼の絵はそんな下世話なことはどうでもいいくらいに、そこを遥かに超えて存在し、評価されている。彼の絵は見るものを魅きつけ、切実に語りかける。彼の絵には揺るぐものがない。彼の個性が、情熱が、彼の絵に対する気持ちが、絵の中に、線に、色に、題材に込められている。絵の上手い下手などを超えた彼の個性といったものが、絵の中に輪郭をもって光を放っているのである。
たぶんそれは、表現力によるものだと思う。じゃあ、表現ってなんなのか? その人が、その絵に対する情熱、パッションがどれくらいあるか? 少なくともそれは問えると思う。その絵にどれくらいの愛情があるか? ということなのだと思う。少なくとも、それが見る人には伝わるのだと思う。
私には、私の絵に対して描く上で責任があり、ともないます。絵を描く以上、覚悟がいるのです。無責任には成れません。自分が望むような結果がでるかでないにしろ、精一杯、貴方を望んで描きました、といえる人間でありたいと常に絵に向かうときに心に誓っています。語弊があるかもしれませんが、下手な絵では私の思いや伝えたいことが阻まれるのです。私の世界、表現したいものに近づけないのです。居心地がよくないのです。ゴッホもルソーも素晴らしいです。彼らにしか描けない絵です。私の絵を描くという行為は鶴の機織りのようなものです。誰にも思われてないところで、一生懸命、自分の命、身をけずった美しい織物、絵を創っていく、生み出していくのです。
今の画風は誰に言われたのではなく、自分が描きたいように描いて、四苦八苦しながら身についた自分の画風です。自分を信じて描きつづけます。これからもずっと描きつづける。