心のアート展 2011年「僕らは何をめざすか」
まず、理屈っぽい話から入ろう。芸術とは何か? つまり、それはマグマの対流。そのひとつには、感情と感覚がある。それと殻のように観念が包んでいる地球、あるいは人間という存在がある。そして、このマグマと地表の観念によって摩擦が起きた時、高熱となり、溶岩になって、火山が爆発する。つまり、表現とはこうした噴火活動なのだ。「芸術は爆発である」と、岡本太郎が言った言葉は、まんざら出まかせでもないようだ。あの岡本太郎のド三流の絵に比べ、彼の芸術論というのは超一流であった事を覚えなければなるまい。今、僕らがめざすモノ。それはアートが失った、こうした情念の力を、もう一度つかまえ直す事。そのことしか、アートがよみがえる道はないだろう。今のアートシーンを見渡すと、荒れ地ばかりが広がっている。スーパーフラットを主流と位置づける業界人をみても絶望的状況である。彼らがやっているのは、ぬり絵的お仕事で何億円も稼ぎ出すという、まったくの産業アートファシズムである。僕らは、ヤツらのように迎合表現はしない。自己に忠実な本当の表現をやっている。なぜ人間が絵を描くか? それは売名行為や金もうけのような、いわゆる「現代アート」ではないはずだ。アートには心がなくなった。だから、あえて僕らは心からのアートを求める。それは産業が僕らから奪っていった「情」や「喜怒哀楽」を僕らの表現で世の中に示していくことだ。
人間はそもそもなぜ絵を描き始めたか、一言では回答できない。しかし、「食う」ことと同じくらいに、人間の欲望として「描く」という意味がひそんでいるはずだ。決してビジネスじゃない。
2011年2月28日・記
マインド・レジスタンスⅦ
何百年前の話になるだろうか。「末法の世」と言われていた日本において、武士があばれ乱れ、その中から新しい宗教が立ち上がったのは必然であった。道元、日蓮、そして僕の共感を感じた宗教者、親鸞は、自ら「非僧非俗」の立場をとって活動した事は有名だ。
今、日本のこのパニックは、「末法の世」と言ってもいいほどに社会が歪んでしまった。文化人が本当の教養、文化を育てていれば、阻止できた事は間違いない。
芸術家(アーティストさん)は、ほとんどが御用商人と化し、消費原理の勝者がメディアで大きな顔をさらしている。
僕の持論は、アートで「起業するな」、アートで「金を稼ぐな」である。商と芸を分離しなければ芸術はひたすら腐敗をすすめる。
とにかく、僕は現代に脱アート宣言して、「非芸非商」の表現を続けるつもりだ。
地獄状況の中で表現することとは
若い世代に太平洋戦争の責任はないだろう。しかし、僕らは、未来に対する大きな責任を持っている事は確かだ。テレビでこんな事を言っていた。「日本は核武装しないと一人前ではない。すぐに徴兵制を復活させるべきだ。日本は軍事政権を持たねばならぬ。」こうした政治家の分裂的妄想をほったらかしていいはずがない。
政治家がこうして9条にツバを吐くような発言は、もはや犯罪であり、僕ら表現者はヤツら以上に声を高くして発言してゆかねばならない。
例えば、核の恐怖も政治家の国民だましから始まった事。僕は今、反核シリーズの絵画を描いている。これは美術としてメッセージを発していくには、かなりの造形力を要求される仕事だ。美術とは、決してビジュアル遊びではない。社会の歪みを告発してゆかなければ僕の表現の必然性はないと思う。