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テキスト 心のアート展

  • 『片脚で立つ森田かずよの肖像』桐塑、油彩 120㎝ 撮影.齋藤哲也

私は90年代から球体関節の人形を制作してきました。やがて、実際に出会う人にモデルになってもらい、その人との関係や身体のイメージを表現する立体作品「肖像人形」をライフワークとするようになりました。今回出品した『片脚で立つ森田かずよの肖像』は、強度の側湾症、二分脊椎症などの重度の障害を持ちながら女優・コンテンポラリーダンサーとして活躍する森田かずよさんをモデルにして制作したものです。

その前まで私が作ってきた肖像の作品では、身体は自由に変形させて造形し、それを自分の表現としてきたのです。しかし、森田さんは生まれた時に医師から「長くは生きられないだろう」と言われたほど、もともと大きく変形した身体で生まれてきた方です。私はこの作品では自分のできる限りを尽くして正確な造形を目指し、その特別な形の身体を判ろうとしました。この作品が出来上がるまでに、2年半という時間が過ぎていきました。

大阪在住の森田さんと東京にいる私のそもそもの出会いは、「私の身体を立体で作ってくれる人はいませんか」という森田さんのSNSでの呼びかけからです。自分の身体がわからないから外側から見てみたい、舞台衣装を作るのにも役立てたい、とのことでした。私は2012年の4月に初めて森田さんに会うことになったのでした。

「自分の身体がわからない」だから外側から見てみたい。事情は違いますが、これと同じことを、私もかつて言っていたことを思い出しました。いわゆる「お人形」ではない肖像作品を作るようになった最初の取り組みは『Self Portrait Doll』、1996年の制作でした。「セルフポートレート」、すなわち自分の顔・身体を作ったのです。その頃はまだ会社員で、それは自分のためだけの制作でした。20代の終わりの頃でしたが、私はいくつかの事情から自分の身体が自分で正しく認識できなくなって、困難な状況に陥っていました。この身体を外側にもう一つ作ってみれば自分を取り戻せるような気がして、自分を計測して数値を出し、全長120センチほどに縮小した人形の設計図を描きました。

作っていく作業の中では、人体解剖図にある骨格や筋肉、腱などが自分にもほぼ同じようにあることが驚きでした。地図で観ていた町に実際に行ってみて驚いているような感じです。それは目覚ましい感覚でした。私は、自分が何か得体の知れぬ存在ではなぐ皮膚の下にこのように精密な機構が、他の人や自然の美しい生き物たちと同じようにある、と感じたのです。

その後私は少しずつ「自分を大切にする」ことを学ぶようになりました。自分を見つめたように人ともっとよく向き合えるようになりたい、とも思いました。肖像の作品を作っていくようになったのは、制作によって心豊かな他者と接して、その人から見える世界に出会いたかったからです。実際、私はそれから本当に長い時間をかけて、モデルになってくださった方たちや作品に関連してお世話になる方々、出会う皆様から、多くのことを一つ一つ学んできたのです。

2013年1月、私は森田さんのご自宅に訪問し、ヌードを見せてもらいました。その大きく屈曲した身体は、私のぼんやり考えていたイメージを全く超えていて、骨格も内臓も筋肉も理解できませんでした。人の体は通常、脊椎を中心に左右対称にできていて、その中心線が造形の基準になります。しかしその基準となる脊椎がどう曲がっているのかわからないのです。彼女の、左側よりも短い右脚は義足をつけることで左右の長さを揃えて立つことができています。義足を外してしまうと片脚で立つしかなく、何かにつかまって立っているにしても、その持続時間は決して長くはないのでした。私はその鋭い陰影を見せる華奢な身体にすっかり魅了されてしまいました。

大阪と東京との距離もあるので、森田さんの当初の希望通り、小さなフィギュアほどの大きさのものを作って終わりにしても良かったのです。しかし何度か通ううちに私は森田さんの天性の表現者としての個性に気づかされていきました。様々な困難を乗り越えながら、障害のある身体だからこそできる表現があるはず、と活躍の場を広げてきた彼女の力強さ。切れ味の良い知的な発言、人の視線を浴びて一層その輝きを増す瞳。しかしその服の下の、ダンサーとして研ぎ澄まされた身体の奇跡は誰も知らないのです。私は、自分こそがまだ誰も知らなかったこの美しさを表現しなければいけない、という思いを強く持ったのです。

いくつかの小さな塑像の制作を経て、60センチほどの全身像を作り、それでも終えることができず最終的に大きな全身像を制作しました。大きい作品としてヌードで作らせてもらうことは、当然ながら、彼女の身体のプライバシーに関わる問題がありました。これを作品として完成させてしまう前に、例えば昔、見世物興行の演し物として制作された「生き人形」というものがありますが、それとどう違うのか、つまりこれが「障害のある身体をただ見世物にする」ものではないということについて私は整理しなければいけないと考えました。

この身体像は自分の意思を封じられた障害者・女性という「弱者」が一方的に見世物にされている、という状況ではありません。一人の特別な身体を持った表現者である女性が「自分の身体を確認したい」と感じたこと。それに対して、「身体を確認する」ための制作によって心身の危機に対処した経験のある作り手が、誠意をもってその像を作った。この作品はそのように作られました。『片脚で立つ森田かずよの肖像』は、彼女が障害のある身体をはっきり肯定し、表現していこうとする意志によって作品として成立しているのです。

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