これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

先日、何気なく捨てた紙切れが5歳の息子にとって大切なものだったらしく、半泣きで抗議された。「面倒くさいなぁ…」と思いつつ、でも自分はこの種のことに関してはもっと面倒な子どもだったので、息子の気持ちは痛いほどわかる。「大切なものはちゃんと片付けなさい」と、一応どこの家でも言いそうなことを言いながらも、悔し涙を浮かべる息子を見ると胸が痛んだ。心の中では「どう言っていいかわかんないけど、とにかくごめん」と謝ったけれど、きちんと目に見える形で謝れなかった自分は、なんだか「つまんない大人」になってしまった気がして、妙に落ち込んだ一日だった。

その日の夜、ふと思ったのだけれど、「心のアート展」に出品された作品たちって、その後どうなっているんだろう?会場から撤去された作品は事務局(平川病院)に戻されて、そこから各病院を通じて制作者に返却される。大切に飾っている人もいれば、どこかに預けたりしまったりしている人もいるだろうし、かさばるから処分しちゃった(されちゃった…)という人もいるだろう。「過去の作品」との向き合い方はそれぞれに違うから、いろいろな「その後」があるはずだ。ただ、個人的には、この世界のどこかに存在していて欲しいと思う。「同じ釜の飯を食った仲間」じゃないけれど、「同じアート展を作った仲間」みたいな愛着は、なかなかどうしてすぐに消えてしまうものじゃない。

「絵」って、極論すれば、紙に顔料や染料が染みこんでいるだけのこと。国宝級の名画も、保育園でのお絵かきも、その点では変わらない。そこにどれだけの「価値」を想像力という接着剤で貼り付けていくのかが違うだけ。「金銭的価値」も「文化的価値」も「個人的な愛着」も実体としてあるわけじゃなく、その想像力を社会の人たちがどれだけ支持したり共有したりするか、ということなんじゃないか?。だとしたら、ぼくは「誰にもわかってもらえない、自分だけの大切さ」を抱える人たち側の立場にいたいと思う(…息子の絵は捨てちゃったけど、気持ちの上ではそうありたいと思っています)。

「心のアート展」に出てくる作品には、制作者の「自分だけの愛着」みたいなものが感じられることが多い。そんな「愛着」に出会うのが嬉しくて、こうして実行委員を務めている。出品者の話を聞いていると、「この絵の大切さも、自分の創作への思いも、他人にはわかってもらえないし、無理にわかってもらわなくてもいい!でも、わかってもらえたらそれはそれで嬉しい…」というような、尊大さと謙虚さがグルグルと渦巻いていることがあって、そういう葛藤を抱えた描き手に出会えた時、「ああ、こういう人好きだなぁ…」と心底思う。

一筆分の絵具が重ねられる時、そこにどんな感動があるかは、その人にしかわからない。そうしてできあがった絵がどれだけ大切なものかも、その人にしかわからない。そんな「その人にしかわからない価値」を、多くの人が集まる会場に陳列することは、冷静に考えてみれば矛盾したことだ。でも、世界にはいろんなかたちの「大切さ」があることを、来場者と共に嚙みしめたい。そうした「大切さ」の居場所がある社会の方が、きっと、たぶん、息苦しくないんだと思う。

だから、「心のアート展」には、いろんな人に来て欲しい。できれば、もう少し子どもたちにも来て欲しい。ときどき「アート展だから子連れは無理ですよね」と聞かれることがあるけれど、ぜんぜん無理じゃない。お行儀よく静かになんてしなくていいし、ちょっとくらいなら(ほんとにちょっとだけ!)走って構わない(注:個人的見解)。展示作品を模写とかしだした子どもがいたら、間違いなく全力で応援すると思う。いや、感極まって泣いてしまうかもしれない。

「え!これってそんなに大切なものだったの!?」なんて驚いたり謝ったりしながら、そんな「大切さ」を受け止める容量を、自分の中にも、社会の中にも増やしていきたい。そのためにも「心のアート展」という試みを続けていきたい。10年後も、20年後も、同じ歩調で歩き続けながら、こんなことをやり続けていたい。

 

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