表現っていいな、と思う。表現から受ける“感じ”を、言葉にすることはむずかしい。どんなに工夫しても、がんばっても、そこからこぼれていってしまうものが、表現にはある。そこが、いいところだと思う。その表現から自分がいま何を感じているのか、作者はどうしてこういう表現をしたのか、何を考えているのか、そういうことを見る人は言葉でハッキリと言い表わすことはできない。おそらく、表現した当の本人にだって、なかなかできないと思う。なんでこんな風にしちゃったのか、自分でもわからないことなんてしょっちゅうあるから。
表現のよさというのは、うまく言葉にならないところにあって、それはつまり、判断したり結論を出したりということを明確にできないところにあるんだと思う。簡単にいうと、「好き・嫌い」はあっても、「いい・悪い」はない、ということ。「こういう表現、好きだな~。」というのはあるけれど、「この表現は間違っている。いかん。」というのは、あまり聞いたことがない。
僕たちは普段、言葉を使ってコミュニケーションしていて、もちろんそこでも表現し合っている訳だけど、どうにも言葉にすると「いい・悪い」と判断されたり結論づけられたりしてしまうことが多いように思う。今のご時世、言葉を表現としてとらえる感性よりも、言葉による理性的で論理的なやり取りの方に、よりウエイトがおかれているからだろうか。そういうのは、なんだかちょっと窮屈で苦しいな、と思う。判断したり結論をだしたりしないで「宙ぶらりんにしておくこと」、実はそういうことがとっても大事なんじゃないだろうか。
そんなことを考えていた時、デビット・ボームという人の『ダイアローグ』(英治出版・2007年)という本に出会った。「ダイアローグ」とは日本語にすると「対話」ということだけど、ボームは対話をする時に、自分の価値観で人の言葉を判断してはいけないという。例えばグループ内で誰かが意見を言った時に、それをいいとか悪いとか判断しないで、宙ぶらりんにしておく。そして、グループの中にでてくる色んな意見をグループ全員で共有する。そうすると、あえてグループ全体として結論をださなくても、おのずとそのグループ全体の進むべき道が浮かび上がり、メンバーそれぞれに自覚されていく。ボームは、それが「対話」の本来あるべき姿だという。
僕は平川病院の〈造形教室〉というアトリエでスタッフをしている。このアトリエがどういうところなのかというと、ここを主宰する安彦講平先生の言葉を借りると、メンバーそれぞれが「表現する主体となり、自らを癒し支える“営みの場”」ということになる。〈造形教室〉の活動はドキュメンタリー映画になり、国内だけではなく、海外からも多くの共感・共鳴の声が寄せられているが、この「場」が関心をもたれている理由のひとつとして、表現を通じた感性の交流、交感といったコミュニケーションがごく自然になされていることがあげられると思う。もしアトリエが、自由に表現することのできない、理性的、論理的な言葉だけでやり取りする場であったなら、きっとこんなにも有機的な関係や場はできていないんじゃないだろうか。
アトリエでは、それぞれに描いている絵を見ては、この人はこんな感じなのかな、あんな感じなのかなということを、意識しなくても日頃からお互いに感じ合っている。あの人はあまりしゃべらないけど、あるいは言葉ではこんなことを言ってるけど、でも「こういう表現をするんだ」と思うようなことはよくある。表現を通してその人を知り、時には思いがけない一面を発見したり、気づいたりしていく。言葉で判断したり結論をだしたりしてしまうようなことが、そこに表現があることで、ひとまずストップし、宙ぶらりんの状態になる。表現が、言葉による解釈にまったをかけるといってもいい。そして、言葉に頼らず、あるいは言葉に縛られることなく、表現を通してその人の全体を感じとるようになっていく。
そもそも表現というのは、頭だけでするものではなく、身体全体でするものだと思う。だから、そこに現れてくるものは自然と、無意識や身体性なども含めたその人の「全体」により近いものになっていく。表現することは時に恥ずかしかったりもするけれど、それは表現した本人が自覚していないことまでも、作品が雄弁に物語ることがあるからだ。表現は、言葉を超えている。そして、見る人もまた、頭だけでなく、身体全体でその表現を受け止める。だから、表現を通じた関わり合いは、言葉でやり取りをする以上の深い関わり合いをもたらし、「対話」を可能にしていくんだと思う。
〈造形教室〉のアトリエで有機的な関係や場が作られているのは、きっとこういう背景があるからなんだろうな、と最近思うようになってきた。アトリエのみんなは、あえて言葉にしなくても、なんとなくまわりの仲間のことはよく知っているし、アトリエの「空気」や「場」を共有し、漠然とではあるけれども、進むべき方向を共有しているようにも思える。自己表現という表現活動を通して日々、「対話」しているからだ。
表現は、その表現者の身体を通して、世界に放り出される。それは絵であったり、音楽であったり、詩であったりとさまざまだ。作品は生みだされ、作者の手から離れ、表現はその受け手を探し求める。この「心のアート展」にもさまざまな表現が集まった。それは、閉塞的で窮屈な仕組みに自分自身を合わせていかないといけないようなこの現代社会にあって、ひときわ雄弁に語りかける作品たちばかりだ。
ここに集まった表現を見て、いいとか悪いとか判断せず、宙ぶらりんにし、感じたものを大切にしていけるような関わり合いをたくさん作っていけたら、どんなにすばらしいだろうと思う。なぜなら、そうすることで現代社会の抱える問題を解決する道が、おのずと浮かび上がり、そのヴィジョンを多くの人と共有していけるんじゃないか、という期待があるからだ。
展覧会のタイトルを「生命の証」とし、サブタイトルを「芸術の力、新しい使命」とした。この展覧会に集まった作品群は、まさに「生命の証」といえる切実な表現たちばかりだ。そのギリギリの表現は、困難な現代社会に生きる多くの“心”に共感、共鳴をもって受け止められ、感性による「対話」をもたらし、人や社会を動かす“芸術としての力”を発揮していくだろう。そして、この「芸術の力」を社会に向け広く発信していくことこそ、この展覧会活動が担っている「新しい使命」なのだと思う。