これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

昨年の第1回「心のアート展」は異色の美術展として静かな感動と衝撃を与えた。なぜ、人々の心を震えさせたのか?それは、展示された作品のいずれもが、芸術のための芸術ではなく、治療のための芸術でもなく、心を病む者の魂そのものの告白であったからであり、それはまた閉塞的な現代社会の深淵を鮮烈に照らし出してくれたからである。会場が都会の繁華街であったことは、こうした特異と考えられがちな心の葛藤が、じつは都会を行き交う誰もの心の内面に遍在していることをあらためて気づかせた。今回も、昨年をこえる力作が集まった。それらは、ひたすら病いと向き合い、画面と向き合い、自己と向き合い、他者と向き合い、みずからの心身を燃焼しつくして生まれた、言葉にならない魂の嗚咽、魂の凝視の果ての、ぎりぎりの表現なのである。

これらの作品を見ながら、私の脳裏に、あの宮沢賢治の一枚の水彩画が思い浮かんできた。それは、『空の裂け目』といわれる作品。・・・・・・地上から伸びる不気味な五本の手、髭の生えた異様な三日月の顔、天空の裂け目からのぞく不思議な顔・・・・・・。賢治は「空のひびわれ」という異空間感覚をはやくから抱いていた。〈山の藍そらのひゞわれ/草の穂と/数へきたらば泣かざらめやは〉という歌がある。空の裂け目を幻視する不安感。それは思春期特有の過敏な感覚が背景にあるとはいえ、そこには異常な不全感、妄想気分、離人症などの神経症状が見られる。賢治は、盛岡中学校を卒業したころ、鼻の病気で入院したが、その懊悩と焦燥の日々、次のような歌をつくっている。

ぼんやりと脳もからだも
うす白く
消えいくことの近くあるらし

わがあたまときどきわれに
ことなれる
つめたき天を見しむることあり

『空の裂け目』という賢治の水彩画は、まさにこの歌に詠まれた心の不全感を映した作品なのであった。この「心のアート展」の一隅に、かりに、この『空の裂け目』という作品が並んでいたとしても、見る人たちは、それがあの宮沢賢治とは思わないで、応募作品の一点として見ていくにちがいない。人は病むことによってはじめて自己と向き合う。そのとき隠れていた真の自己を発見し、健康という日常性の中にいた自己そして他者との亀裂に愕然とする。そして、その驚きを表現することに駆り立てられ、表現することによって隠れた自己を解放しようとする。

ここに集まったのは、『空の裂け目』を幻視した宮沢賢治につづく「心の裂け目」を描くことによって、自己解放し自己治癒していった作者たちである。彼ら彼女らはみずからの「心の裂け目」を描くことによって、自己解放し自己治癒していった。

もし、「心のアート展」で、この「心の裂け目」という異空間を表現者たちと共有することができれば、その人は隠れた自己と向き合い、未知の世界の旅へと導かれていくにちがいない。

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