去年の展覧会は、それまで描いた旧作も入っていて、実に充実した展覧会になっていた。しかし、今年のは、新作を中心とするので、ひょっとしたら充実した作品が少なくて困るのではないかと心配したが、それは杞憂に過ぎなかった。独創的なよい作品が数多くて、審査の方々がむしろ選ぶのに迷うほどだった。
色彩、造形、構成、マチエール、どれをとっても作者の内面が見事に形象化されていて感心した。私は既成画家の展覧会や個展をわりあいによく見る方だが、はっきり言って失望することのほうが多い。さすがはクロウトらしい、巧みな筆さばきでまとまった、まっとうな絵を見て、達者なものだな、うまいものだなと思う反面、流行を追ってそつなく仕上げている絵画にもの足りなさを覚えるのだ。信州上田にある「無言館」の戦没青年たちの絵のような、心の奥から絞り出てるような表現の力が、乏しいのだ。今度の第2回「心のアート展」の絵には、戦没青年画家たちのような切羽詰まった力強い作品がある。心の病がそういう限界状況をつくりあげて、それが独創になって結実している。自分を影として見ている自画像、思い切り派手な構図と色彩で度肝を抜かれるがどこか悲しみを漂わす画面、細密でどこまでも心の襞を描き尽くそうとする粘着性の絵、実際の印刷絵を組み合わせてまったく別次元の世界を見せるコラージュ、色彩の調和や端正な形をこわしてしまい、あくまで自分の内面を追い求める暗い素朴な表現、あるいは逆に、装飾に徹して派手で観る人に心の針のように迫ってくる手法。いいなと思った。絵画が心の表現であることを立派に証明している。表現することが自分の心との戦いになっている。それが正直に現れていて、観客の心に意外さで迫ってくる。
しかし、今私がしているように絵画への感銘や称賛を文章で表現するのが、そもそも不可能なのだ。私は精神科医なので、どうしても心の病と表現の関係に敏感に反応してしまうが、そういう鑑賞の仕方が間違っているとは思わない。絵画は展覧会場に掲げられた時から、誰がどのように見ようとしてもかまわない自由な場に引き出されているのだ。その度胸を作者は強く持ってもいいのだし、芸術というのは自分の恥ずかしいような心の悩みを切実に独創に変えてしまうものなのだ。
私には絵画を描く才能がまったくなく、誰かの描いた作品に自分の心が触発されるだけだが、文章の世界では多少、自分の心を表出することはしている。むろん、人間である以上、表現が通俗に堕してしまったり、誰かの真似事になってしまうことがある。逆に、自分らしい心の文章が書けた喜びを覚えることもある。絵画と文章が握手できるのは、そのようなある瞬間である。その至福の瞬間が今度の展覧会で、なるべく多くの人々に現れることを私は、祈っているし確信もしている。絵画や彫刻をつくることによって病に悩み、苦しんでいた心は解放されて、癒されてくる。苦しみを描くことは、苦しみを画面へと移しかえる作用となる。これは苦しみを書くことによって、そこから抜け出してきた私の体験でも言える芸術の力である。
ところで展覧会の優秀な作品に賞を与えたらどうかと提案したのは私である。私はいくらかの文学賞をもらったけれど、受賞の喜びは、創作の苦しみを幾分拭い去ってくれるものだと知っている。これからこの展覧会を続けていくうちに、受賞作が、毎年展示されるようになれば、絵を描く励みになるのではなかろうか。