この度、第2回「心のアート展」として、2回目の会が、昨年と同じ池袋の東京芸術劇場で開かれます。この「“癒し”としての自己表現」の場は、1960年代、日本が第二次世界大戦の立ち直りの中、精神病院医療は、なお古く暗い時代を続けており、その社会の底辺に沈み込んだ場に過ごした人達の抱かれていた哀しみ・苦悩が、はじめは恐る恐る、次第にほとばしるがごとき力強さを持って表されてきた場であると思います。
1970年代、‘80年代、‘90年代とその精神病院の差別状況への告発、自己批判、反省の渦の中で、開放化へ努力する人達の動きがあり、その動きと連動して、東京足立病院の中でも、患者さんの生活を取り戻そうと様々の楽しむ場を考えてきました。その一つの場が1968年に入職された安彦講平さんを囲んで輪が広がり、鉄格子の暗い病棟の片隅で思い思いの絵を描きだし、次第に広い、明るい部屋・外へとみなの思いが膨らんでいった。その長い歴史の歩みがあって、今日の集大成がなされてきたと思います。
しかも、2000年代、2010年代とその労作への苦闘は、個々の精神の重さの中で続けられています。
今は、社会全体が「無縁社会」と言われ、人と人のつながりが持ちにくい、いつの頃からか、格差が目立ち、落とされてゆくものに、「自己責任」という言葉が投げかけられ、支えあうより、個々がばらばらになり、孤立感、空しさに囚われていっています。その様な中、この安彦さんの『造形』の輪は、個々の個性を大事にし、しかもどんなささやかなものも、小さな動きもみんなで認め合う関係を作っています。自由で、個々ばらばらのようで、繋がっている優しさがあります。
そこでずっと描き続けているNさんも、考えるほどに答えの出ない苦悩を抱えながら、画板に向かい続けてきました。“俺の人生なんだったんだ! 大学出て、病院に入れられて・・・もう60歳だよ! 仕事したかったのに、な~、あちこち行って、みんな駄目だったものな~、薬ずっと飲むように言われて、病院に縛られて、・・・親は帰ってくるなと思っていて、亡くなってしまった。病院で、安彦さんと出会えたから、絵を描くようになって来たけどね・・・、生活保護受けて、それだけ!・・・俺の人生これだけ・・・”と、なんともやるせない気持ちをぶつけてきたNさん。発病時のことで訴えたいお母さんが亡くなられ、その割り切れない思い・憤懣やるかたない辛さをぶつけられ、唯、肯くしかない私でした。
そんな中、Nさんは、ある日画板に向かっていました。・・・・・・一週間余で描き上げた絵。それは、燃え上がる炎! 火というより人の内面からなにかが燃え上がり自分の内側をも焼き、全てを浄化し、昇華してゆく激しさ、・・・・・・、その情念の強さに圧倒される。それは、昨年亡くなられたお父さん、お母さん、そして弟さんへの弔いの炎かもしれないと思います。Nさんは、大きな100号の画板に燃え上がる情念の炎を一面に描き上げました。その画板にぶつけた情念のほとばしりが、母親に抱いていた疑念・怨念をも浄化し、Nさんは全てを許し、親和の中に溶かしていった、と思います。
描くことはすごい力! まさに、“癒し”としての自己表現だと思います。
2010年4月