前回(第6回展)のテーマは「臨“生”芸術宣言!」で、はじめて目にする不思議な言葉に戸惑われた方もいたかもしれない。実際、会場で開催された安彦講平氏(本アート展実行委員)と窪島誠一郎氏(信濃デッサン館・無言館 館主)の対談では、「臨“生”」という言葉の解釈にちょっとした違いがあり、たいへん興味深かった。
安彦氏は、医師が病床の患者と向き合う「臨床」(リンショウ)をなぞり、芸術は人間の生の現場に「臨む」営みであるという意味で「臨“生”」(リンショウ)と解釈していたのに対し、窪島氏は、ご自身クモ膜下出血から生還した経験に基づき、「臨死体験」の反対語として、いま自分が生きて在ることを実感する「臨“生”」(リンセイ)と解釈していた。
「リンショウ」も「リンセイ」も、もしかしたら同じ事柄を違う視点から見たもので、ほとんど同じことを言っているのかもしれない。ある苦しい状況を生きる者と、その者に寄り添う者と、どちらも一人の人間が「生きる」という営みにおいて本質的な違いはない。冷たい川の真中に立って、寄り添いつつ流れに耐える者同士であるような気がする。
こんなことを考える時、私が思い出すのは、第6回展の会場片隅に張り出されていた一篇の詩である。「臨“生”芸術宣言!」と題されたその詩は、「リンショウ」と「リンセイ」の両側面を柔らかな言葉で溶かし込み、みごとに昇華していた。
変えられないものがあるとしたら
それは いまの自分にとって 一番大切にすべきもの
わたしに広がる世界は わたしが受け取った世界なのだから声にならない叫びや 溢れ出す悲しみ
誰かにぶつけたら暴力とも言われる怒りを抱えながら
一本の線が 昨日と今日とを繋いでいく風の中に答えを求めながら
何もかも赦して この道を生きたいそして 病むという苦しみを知った人の声を聞こうと
それを切望する人に出逢う時
わたしは心を開いて あなたの苦しみに触れよう(詩「臨“生”芸術宣言!」後半部分より)
この詩は、「わたし」という病む者の苦しみを謳いながら、また一方で、病む者に寄り添おうとする「あなた」の苦しみにも触れようとしている。「リンショウ」と「リンセイ」の二つの視点を一つの詩という箱に入れると、このような、人の体温に近い光りを放つようだ。
病む者と寄り添う者。支える者と支えられる者。絵を見る者と絵を見せる者。「心のアート展」を開催していると、そうした「立場」というのは借り着でしかなく、小さなきっかけさえあれば「する-される」の関係など溶けてなくなるような感覚を覚えることがある。
絵を描いた人が、描いた絵に励まされる。絵を見せる人(出展者)が、絵を見る人(来場者)の反応に刺激を受ける。絵を見る人(来場者)の反応が、アート展を支える人(スタッフ)を支える。そうした複層的な交わりが会場に生まれる。
喩えるなら、そこにあるのは「同じ渦に巻き込まれているような感覚」かもしれない。借り着を脱いだ人たちが同じ渦に巻き込まれていて、しかもその渦を起こしているのは渦の中にいる人たち自身で、自らが起こした渦を楽しんだり、足をとらわれて怖い思いをしたり、何も考えず流れにたゆたっていたりする。
そうした渦の起きるアート展の現場が、たまらなく好きだと思う。
第7回展のテーマは「境界を越えて―生の原点に還る―」。このテーマの通り、一人でも多くの人の借り着を剝がしたい。「リンショウ」も「リンセイ」も、ほとんど同じ意味になってしまうような、静かに強い渦を巻き起こしたいと思っている。