これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

多くの方々のお力添えを頂いて、「心のアート展」も第4回展を開催できるはこびとなった。なによりも、まずは日々の努力の成果をご応募いただいた皆さまに、心から感謝申し上げたい。

このアート展に携わり、切実で真摯な作品と接するようになってから、「希待」という不思議な言葉の意味が、理屈を超えて肌で感じられるようになった。この耳慣れない造語をご教示くださったのは、かつて東京の郊外で先進的な精神科医療の実践に挑んだ某病院の元職員である。鍵も檻もない完全開放の病棟。冗談交じりに「休む暇がない」とまで言われた充実したレクリエーション。病院に関連するすべての人間が何らかの形で治療者であろうとする医療体制。このような「多次元療法」を標榜した同院の治療方針は、人間に内在する善性や可能性への無条件な「希待」に支えられていたのだという。

一見、ある人を慮った誠実な顔をしながらも、他方で、その誠実さに釣り合う見返りを求めるのが「期待」であるとすれば、その人を「とにかく無条件に信じてみよう」という態度が「希待」である。このように言うと、ずいぶんとロマンチックな発想だと揶揄されそうであるが、そのロマンを信じて汗と涙を流し、途方もない努力を費やしてきた人たちがいたという事実は、しかと胸に留めておきたい。

現代社会のなかで一番欠落してしまったのは、もしかしたら、この「希待」という態度なのかもしれない。福祉や教育という人間を扱う現場においても、数値化できる「成果」や、確実な「費用対効果」の見積もりを求められることが多くなってきた。それと並行して、信や義といった私的な感情に支えられていた関係性が居場所を失い、「専門性」や「資格」といった客観的な指標に支えられた関係性にとって代わられつつある。

もちろん、私的な感情に支えられた関係性に問題がなかったわけでは決してないのだが、ただ、「測れるもの」への行き過ぎた傾倒と、「測れないもの」への漠然とした不信が、日に日に強くなっているように感じられて仕方がない。

いま私たちが生きているのは、人間に対して、露骨に過ぎる「期待」が渦巻く社会なのかもしれない。社会全体が行き詰まり、一人ひとりの構成員にも余裕がない状態では、「無条件に誰かを信じてみよう」という発想は芽生えにくい。余力がないなかで、確実な成果や見返りを求めざるを得ない切迫した心情が、「数値」や「資格」への過剰な「期待」へと繋がっているのだろう。

こんな時代だからこそ、客観的に「測る」ことも、「量る」ことも、「計る」こともできないが、それでもきっと「在る」ものを描き出すことが大切になってくるはずである。それを具体的に描き出すのは難しくとも、少なくとも、私たちのなかにはそのようなものが確かに「在る」のだと、筆と紙を駆使して、人びとの想像力に働きかけることがアートの使命なのかもしれない。

そんな重大な使命を科されるのは過酷であり、自分には不可能だと思う人もいるだろう。しかし、切実な思いのもとに生み出された作品は、時として、自分の意図を超えた力を持つことがある。最近しばしば思うのだが、「アーティスト」とは、「自分の思いを的確に表現できる技術を持った人」ではなく、むしろ「自分自身の表現の力に、自分自身が驚くことができる人」なのではないだろうか。

「心のアート展」に寄せられた作品たちが、この会場に展示され、光を浴びることで、観る人の心を揺さぶり、作者自身をも驚かす力を放つことを「希待」している。

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