智恵子さんが笑った。展示会の一次審査会の準備に追われていたある日、忙しく動き回っていた視界の片隅で、高村智恵子さんが笑った。それは、江中裕子さん制作の智恵子さんの肖像画コラージュ作品で、ビックリして見直すと当然、笑ってはいなかった。ちょっと疲れがたまっているのかなとも思ったが、単なる目の錯覚には思えなかった。確かに、さっきはとてもにこやかに笑っていたのだ。そして変な話しだが、この不思議体験に僕はホッとした。
智恵子さんはゼームス坂病院に入院中、寝食を忘れるほど紙絵制作に没頭したという。でも出来上がった作品を、医師や医療スタッフに見せることはなかった。夫である高村光太郎ただ一人にしか見せなかったと聞いている。なので今回、「心のアート展」で特集展示することが決まった時、はたして智恵子さんは光太郎以外の大勢の人の目に触れることをどう思うだろう、とずっと引っかかっていたのだった。
智恵子さんが光太郎にしか作品を見せなかったのは、おそらく彼以外の人に見てもらっても、意味がなかったからではないかと思う。もっというと、見せたくなかったのではなく、「見せるべき相手」がいなかったのではないか、と思うのだ。彼女の身近で、真の芸術とその苦楽を分かり合えるのは光太郎ただ一人だけで、それ以外の人に、仮にどんなに素敵な褒め言葉をもらっても、意味を持たなかったのではないかと思う。
智恵子さんは笑ってくれた。きっとこの「心のアート展」には「見せるべき相手」がいる、あるいは自分と同じパッションを持った「仲間・同志」がいる、と感じてくれたからではないかと思う。勘違いだと言われればそれまでだが、智恵子さんの笑顔を見て、僕の中に引っかかっていたものはスッと光の中へ消えてなくなり、背中を押されているような感じがした(こういうことは審査員の齋藤院長なら共感してくれるのかな、と思うのだが…)。
ところで今回、もう一つの特集展示としてH.Mさんこと、堀井正明さんの作品群を展示させていただくことになった。お姉さんにお話を伺いに行った際、とても印象的だったのが、開口一番に出て来た「絵しかなかった」、「絵が彼の全てだった」という言葉だった。そして、第3回、第4回展に応募して下さった最晩年の画風しか知らなかった僕は、その豊穣な作品世界と、表現の多彩さと、厖大な作品数の多さに圧倒された。これは展示作品を観ていただければ、納得・共感していただけるのではないかと思う。
今回、あえて「H.M」と表記したのは、堀井さんがこの展覧会に応募して下さった際にイニシャルだったということもあるが、「心のアート展」に応募してくださる方の多くは本名で、それ以外にはペンネームを使用することが多く、イニシャルというのが、かえって際立っていたからだ。
おそらく、堀井さんが人生の中で最も精力的に絵を描いていた20代、30代の頃に、本展のような展覧会には、多くのイニシャルがあったのではないか、と思う。この「H.M」というイニシャル表記が、「絵しかなかった」彼が歩んだ人生の一側面を、何かこう絶妙に言い表しているような気がして、あえてこう表記させていただいた(ご家族が本名でかまわないと言って下さったにもかかわらず)。このことを、堀井さんが笑ってくれるといいのだが…。
ともかく今回、この2つの特集展示の準備を進めて行く中で、芸術であれ、病気であれ、「時代」というものとは切り離せないのだな、ということをつくづく実感させられた。むしろその時代の中で、何を求め、何に抗い、どのように生き、何を表現したのか、そういった生命体としての在りようが、作品の強さ、豊かさ、深さと密接に関わっているように思えるのだ。
公募作品展示には、同時代を生きる多くの誠実な表現たちが、今回も集まった。今はどんな時代なのだろう。ここに展示された作品を通して、逆に今という時代が見えてくるのかもしれない。そんなことを考えながら、この図録の編集をおこなった。
さて今回は会期中、どんな感性の交感、交流があるのだろう。作者たちや熱心な観覧者との出逢いや、再会。〈ギャラリートーク〉や〈座談会〉では、どんな話しが飛び出すのだろう。今回も、おもしろい展覧会になるに違いない。