これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

「心のアート展」に関わっていて一番戸惑うのは、「“心のアート展”ってどんな展示会ですか?」と尋ねられることかもしれない。尋ねられる度に何と応じてよいのか分からず、時にはその場の空気に合わせて“ウケ”のよさそうな答えをひねり出したりもするのだが、そういった下心の混じった日の夜は、心のなかで小さな「ひとり反省会」が開催されることになる。

最近では「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」「サバイバー・アート」「障害者芸術」といった言葉を冠したアート展も増えていて、用語としても広範に定着した観がある。もしかしたら上のような質問を投げかけられる方も、こういった歯切れのよい返答を期待しているのかもしれない。

もちろん、これらの言葉にはそれぞれ歴史的な背景があり、主義や主張があり、思想や哲学があり、伝えたい事柄がある。私自身もこれらのアートファンの一人として人後に落ちない自負があるが、ただ「心のアート展」に関して言えば、既存の用語を安易に借用しないように、かたく自分を戒めている。

「心のアート展」に応募された作品を手に取るたびに感じるのは、「色々な作品がある」ということだ。いま、自分でも驚くほど当たり前のことを書いているけれど、あえて「驚くほど当たり前」の地点にまで立ち戻ることこそ「心のアート展」の主旨なのだと考えている。

展示される作品は、さまざまな大きさがあり、とりどりの色に塗られ、それぞれが独特の質感を帯びていて、べつべつに存在感を放っている。息をのむようなものも、少し怖いものも、思わず吹き出してしまうものもある。そんな千差万別、十人十色、百花繚乱の作品たちを「当たり前」の地点からじっと見つめていると、絵の背後に一本の軸のようなものが通っている気がして、不思議な感動を覚えることがある。

いつも思うのだが、「心のアート展」で出会う作品たちには「何か」がある。ただ、それは「○○アート」「△△芸術」というような歯切れのよい用語で一括りに名指しできるほど、しっかりとした輪郭があるわけではない。もちろん「思想」というほど洗練されてもいないし、「哲学」というほど高尚でもないけれど、「暇つぶし」というほど余裕もないし、「遊び」というには切実すぎる。

「心のアート展」で出会う作品たちが備えているもの。それを強いて言葉にすれば、「今日という一日、(絵を描きながら/絵でも描きながら)どうにかこうにか生きていこう」という、描き手の「構え」のようなものだ(※)。

力のこもったファイティング・ポーズがあり、練熟したようなしなやかな姿勢があり、悲壮感が漂う身構えがあり、緊張でガチガチの姿があり、滑稽で吹き出しそうな体勢がある。それぞれの作者たちが、自分なりの「構え」で病み疲れた心と向き合い、殺伐とした社会と付き合い、友人や仲間たちと寄り合って生きている。

心を病んでいてもいなくても、障害があってもなくても、人はそれぞれに「生きていく構え」を持っているはずだ。ただ、心を病んでいたり、障害を持っていたりする人は、その「構え」を強く意識させられることがある。「心のアート展」は、絵という窓を通じて、そんな作者たちの多種多様な「生きていくための構え」に出会える場にしたい。

そして観覧者の皆さんにも、これらの「構え」の一つ一つと向き合ってもらって、「自分はどんな構えで生きているのか」について一瞬でも考えてもらえたら、これ以上嬉しいことはない。

 

(※)先日、障害者運動の最前線を牽引される方と対談する機会があり、その場で「運動家としての構え」という言葉が出てきて、とても強く心を打たれました。この文章で言うところの「構え」は、その言葉に触発された私が「アート」との向き合い方を再考するために、独自の解釈に基づいて使用いたしました。知的触発を起こしてくださったご発言者に感謝すると共に、元々の意図・文脈とは必ずしも一致しない点を付記いたします。

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