これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

「心のアート展」第5回展、実現に至った。

2012年に第1回展を創始。以来、航行し、続けてきた。毎回、この展覧会が企図するもの、その質・実を表象することに相応しい副題を添え、掲げてきた。

第1回展 生命からのこもれ日 ―無形の営み、有形の結実―
第2回展 生命の証 ―芸術の力、新しい使命―
第3回展 生命の光芒 ―再生と律動―
第4回展 それぞれの感性との出会い

そして第5回展、“創る・見る・感じる パッション―受苦・情念との稀有な出逢い”である。

一見美辞麗句の羅列に見てとられるかもしれない。

まず冒頭の“創る・見る・感じる”である。苦難苦境に遭遇して、他にかけがえの無い、自らを癒し、支える自己表現のひとつの結晶体としての作品展。会場にはそれぞれに困難な境遇に直面している人たち、一般社会人、様々な専門領域に関わっている方々が来館。年代層も様々である。回を重ねるごとに来館される方が増えてきた。それぞれが求め、必要としているからこそ、そこに必然、偶然の縁起があっての、双方向からの接点、出逢いの場・関係が創り出されてきた。

作品を前にして、観る人それぞれの立ち位置、視線観点、感性によって作品はそれぞれの枠の広がり、奥行き、深まりが創り、拓かれていく。作品と観る側の共時性、一方方向からの“観る”“観られる”という固定されたままの二次元の関係から三次元へ、さらに四次元の双方向性の時間空間が万華鏡の様な律動的な光景として創り出されていく。まるで台本の無い“オムニバスドラマ”の舞台のように。

そして、“パッション―受苦・情念との稀有な出逢い”。パッションは十字架に架けられたキリストの受難、犠牲を指し、そして情熱、激情など対極的な意味を表す言葉であるが、この言葉は高村智恵子の生涯の至福と辛苦を言い尽くしている、と思う。

最晩期、心の病いの療養治療のため、智恵子は昭和10年ゼームス坂病院に入院する。ゼームス坂病院は日本における精神医療の先駆者、呉秀三の師弟の一人である斎藤玉男によって創設された、鍵も格子も無い、当時としては画期的、先駆的な自由開放制の病院であった。そこでは日本人の日常の生活習俗にある、裁縫、刺繍、織物、庭仕事などが、作業療法として採り入れられていた。ハサミを持つことも許されていて、自由に工作・創作することができた。智恵子は千数百枚の紙絵を、このゼームス坂病院で創作した。

今回の「心のアート展」で特集展示するにあたって、智恵子の紙絵作品が保管されている高村家を訪ね、協賛いただき、実現できることになった。永年、高村光太郎と智恵子の研究に専念、執筆を続けられている文学研究者・北川太一氏から詳細なお話を伺った。智恵子の母や親交のあった友人への和紙巻紙に描いた直筆書簡など貴重な資料もお借りして、「心のアート展」会場に展示できることになった。私にとって、まさに、稀有なる出逢いに他ならなかった。

智恵子と光太郎との邂逅の光と影。智恵子が病いに遭遇しゼームス坂病院に入院したことで紙絵と出逢い、紙絵は智恵子の苦難苦境を凌ぎ、智恵子に内在している個有の、独自な表現の鉱脈が開墾されていった、

智恵子は、ゼームス坂病院の六畳一間の病室で、心身没入して創り続けた作品を光太郎にだけ見せて、他の誰にも、担当医の斎藤玉男医師にも見せることはなかった。それは本当に観て、感じてくれる人だけには見せたい、見てもらいたかった、といえるのではないだろうか。

微笑みを浮かべ黙ったまま智恵子が差し出してくれる作品に、光太郎は「キレイ」「スゴイ」と感嘆の声を上げる。智恵子は深々とお辞儀をして全身で喜びの感情を表した。以来、光太郎はお菓子の包み紙、和紙など様々な素材を用意して病室を訪問するときに持参し、手渡した。智恵子は次々と和紙作品を創り続け、一年余の間に千数百枚の紙絵を遺した。

はじめは折り鶴など、手軽に作れる紙細工だったようだが、元々ものを作る手技や絵画表現に卓越した感覚を持っていた智恵子は簡単な、手近な花、果物などを切り絵にしていった。その表現が変容してゆき、智恵子は素朴な具象形から抽象的な作風へと、多彩な表現を次々と創り出し、シンプルな作品だが一糸一線も逸脱することなく繊細、緻密、鋭利に切り刻み、構想、造形されていった。個体発生は系統発生を繰り返す。

小さな素朴な紙絵という薄い作品のなかに、人間の表現の始まりから現代の表現まで、造形表現の変遷の歴史が、辿られているのではないかと思う。

平川病院の〈造形教室〉メンバーの江中裕子さんが15年前、パニック症状で急性期病棟に緊急入院した時に、一瞬一瞬を切り抜けるために、もの作りに傾中しようと、身近な雑誌やパンフレットを手でちぎり、コラージュ作品を病室で造り続けた。病棟の同僚からもリクエストがあり、退院する患者さんへプレゼントするなど、皆が喜ぶことで自分も充足感を得て、凌ぐことができたという。

ゼームス坂病院で智恵子が紙絵と出逢ったこと、70数年後に平川病院の急性期病棟でコラージュと出逢った江中さんとの長い年月を隔てながら、これもまた予定はもとより、予告・予測すらされなかった稀有なる出逢いであろう。

TOPに戻る