これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

いま、精神に病を抱えている方たちは、どんな状況に置かれているのだろう。

たとえば、今年の3月5日、朝日新聞に、「孤立する精神障害者の家族『暴力受けた』6割研究者ら埼玉で調査」という見出しの記事が掲載された。東京大学大学院の蔭山正子教授(地域看護学)の研究チームが、昨年7月から9月、おもに埼玉県内に住む精神障害者の家族768世帯に質問状を配布し、そのうち346世帯の466人から回答を得たもので、その調査結果が、3月4日にさいたま市であった、埼玉県内の精神障害者家族会の集会で報告されたことを受けての記事だった。

それによると、家族の約6割が、精神障害の当事者から暴力を受けた経験があるという。記事を読む限りでは、この調査は細かな配慮の行き届いたもので、当事者が家族以外の他人に暴力を振るったケースは1割未満と少ないことも明らかにしているし、この結果を受けた専門家が「障害者やその家族を孤立させず、社会で支える態勢が必要だ」と指摘していることを、この記事はまず伝えている。

ただ、この記事を安易に読み流す一般読者は、どういう印象を持つだろうか。やはり、「精神障害者は怖いから、もっときちんとした場所に移す(隔離する)べきだ」、という方向に議論が流れてしまうのではないか。そういうことが、想像できる。(そういう反応を心配して、今回の調査に反対した家族がいたことも、記事は伝えている。)一部の精神科診療者や、精神障害に関わるまたは関心を持つ人びとなら、この調査に現れた結果は、むしろ、精神障害者のほうこそが社会から孤立し、家庭(家族)のもとに閉じ込もらざるを得ない、そこでさらに鬱屈した心理を増幅させざるを得ないからこそ、起こってくるのであって、必要なのは、精神障害者の方々がもっと社会に出やすいようにすることであり、社会の側からのその支援なのだ、と考えるだろう。しかし今日、私たちの社会は、そのような想像力を、著しく欠いてきている。もし、いま病院団体が国に財政支援を要請しているような、病院の一部を居住型施設に転換する、というような方策が、かえって更なる「隔離」を助長するようになるのでは、なおさら障害者と社会の溝は埋まらない。いまだ、私たちは、そういう社会的危機の縁に立たされているのである。

そこで、精神疾患・精神障害を持つ方々による、アート作品を公募し、広く一般の展覧に供する、ということに、どういう意味があるのか。ここには、私たちの社会にとって、とてつもない重要性が孕まれている、と考えるべきなのだ。精神病者の方々の感じている・考えている様々なことが、ここでは様々なやり方で可視化されている。そこでは作品のなかに彼ら・彼女らの「人間」そのものが存在している、といってもいい。私たちの社会はこういった方々と共にあるからこそ成立しているのであり、私たちは彼ら・彼女らの驚くべき多彩で真実な表現のなかに、彼ら・彼女らと共に感じ・考え、喜び・悲しみ、笑い・叫び、共に大いに感じ入ったり考えさせられたりすることで、共に分かち合うものが多大にある、ということを知るべきなのだ。世界は、様々に感じ考える人たち同士の交流によって、よりいっそうその深みを明らかにする。その分かちあうべき最も重要なもののひとつが、彼ら・彼女らが生きる場で抱えている、「大いなるパッション」なのかもしれない。

ところで私は、昨年、チリ出身のアルフレッド・ジャー(1956~)という現代アーティストが来日して行った講演会を聴きにいって、ひじょうに感銘を与えられたことがあった。ジャーは、写真や映像や建築的造形物を駆使して、チリの軍事独裁政権やルワンダの内戦など、社会的な問題提起をする芸術家として、国際的な評価を得てきている。そのジャーが、ニューヨークで行ったというあるパフォーマンスの写真が講演会場に投影されるのを見て、私の目は釘付けになった。それは、「Teach Us To Outgrow Our Madness」という作品シリーズのひとつで、この言葉は『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という大江健三郎の小説の題名を英訳したものである。紹介されたパフォーマンスは、ジャー自身が、この言葉を書いた看板を「サンドイッチ・マン」のように担いでニューヨークの路上を歩きまわり、道行く人と対話を交わす、というものだった。私は、ジャーのその一見不器用に看板を担いで街を行く姿をみて、現代人の象徴がここにある、というような気がして、たいへん強い印象を与えられたのだった。

「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」―これこそが、私たちが「心のアート展」のような展覧会に惹かれる最大の理由なのだ。ここに出品された作品を通じて、私たちは、現代人の誰もが探している、生きづらい現代社会を生き延びる方法を、見つけようとしているのだ。自らのパッションを直接ぶつけ、自らの生や環境に真剣な問いを迫る人もいれば、日常のささやかな美に安らぎを見出す人、あるいは、おおらかな哄笑で笑い飛ばしたり、皮肉なユーモアで問題を軽くかわそうとする人もいるだろう。ひとを驚かせるような表現だけでなく、ささやかで一見稚拙に見える表現にも、様々な生き延びる知恵、「生の技法」が込められているのだ。様々な声がここに充満している。この方々の表現を見つめ、耳を澄まし、心を一心に傾け、彼らの表現を知ることを通じて、私たちがこの世界を生きる力と希望を得られるはずだ、と私は深く念じている。

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