1886(明治19)年 | 5月20日 父・齋藤今朝吉、母・センの長女として福島県安達郡に誕生。後に同郡で酒造業を営む長沼家の籍に父母と共に入籍。 | |
1903(明治36)年 | 18歳 | 福島高等女学校卒業時、総代として答辞を読む。 日本女子大学普通科に入学。翌年、家政学部に進学。 |
1907(明治40)年 | 22歳 | 4月 日本女子大学家政学部を卒業。 太平洋画会研究所に通い、洋画家の道を志す。 |
1911(明治44)年 | 26歳 | 9月 平塚らいてう(平塚雷鳥)らによる女性雑誌「青鞜」の創刊号に表紙絵を描き、交流が続く。 12月 はじめて高村光太郎のアトリエを訪問。芸術を目指す同志として交流を深める。 |
1913(大正2)年 | 28歳 | 8月 光太郎と上高地に写生行。 智恵子、この頃から胸を病み始める。 |
1914(大正3)年 | 29歳 | 10月 光太郎、詩集『道程』を刊行。 12月 光太郎のアトリエで同棲がはじまり、上野の「精養軒」にて共棲の報告会が開かれる。 |
1918(大正7)年 | 33歳 | 5月 智恵子の父・今朝吉が死亡。裕福だった長沼家が傾き始める。 |
1929(昭和4)年 | 44歳 | 今朝吉没後、傾いていた長沼家が破産し、一家離散。 |
1931(昭和6)年 | 46歳 | この頃から、智恵子に精神の変調がみられ始める。 |
1932(昭和7)年 | 47歳 | 9月 智恵子、睡眠薬による自殺未遂。 |
1933(昭和8)年 | 48歳 | 8月 光太郎・智恵子、婚姻届提出。 |
1935(昭和10)年 | 50歳 | 2月 智恵子、ゼームス坂病院に入院。 以降、亡くなるまで退院することはなかった。 |
1937(昭和12)年 | 52歳 | 智恵子、この頃から切り絵の制作を始める。 |
1938(昭和13)年 | 53歳 | 10月5日 智恵子、死亡。 死因は肺結核。光太郎、一人臨終に立ち会う。 |
1941(昭和16)年 | 8月 光太郎、詩集『智恵子抄』刊行。 | |
1956(昭和31)年 | 4月2日 光太郎、73歳で没する。 |