これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

学生時代、ぎりぎりの交通費を握りしめては、長期療養所や福祉施設を訪ねたり、あるいは障害者運動の現場を歩いたりするのが好きだった。そこで出会った人たちが、時にほがらかに笑い、時に消え入りそうな声を漏らす様子に立ちあうことは、私自身の存在が試されるような、厳しくも得がたい経験だったように思う。そんな私にとって「心のアート展」は、この生きがたい社会に閉塞感を抱く人たちの「声にならない声」と出会う大切な場所になりつつある。回を重ねるごとに、参加者と応募作品の裾野が広がっていくことも嬉しい限りである。

今回展の副題が「再生と律動」に決まった時、今まで抱えてきた心のしこりがほどけかけたようで、実は小さな感動を覚えてしまった(この言葉に対する私の理解は必ずしも発案者の意図に沿うものではないかもしれないが、しかし感動すること自体は私の勝手だろう)。「律動」はリズム(rhythm)の訳語にあてられることもあるように、一定の運動を繰り返すという意味である。一見単純な言葉であるが、しかしそこに「再生」という概念を重ねてみる時、その持つ意味は深く、重い。

たとえばメトロノームが規則的にリズムを刻む様子を想像してみよう。メトロノームの針は一定の速度、一定の振幅、一定の音量を刻み続ける。その運動の様子は、精密な計測機器を用いて測定してみても誤差はなく、同じ速さ、同じ幅、同じ大きさの力を繰り返し続けるだろう。一回目に針を動かした力と、二回目に動かした力とが同じ性質のものであることは客観的に測定可能だし、実証することもできる。

しかしまた一方で、このように言うことも可能だろう。一回目に針を動かした力と、二回目に動かした力とは、同じ性質ではあるが、その存在自体は異なるものであると。この二つの力が異なる存在であるということは、どんなに精密で高性能の計測機器を用いても測定することはできないし、客観的に実証することもできない。あくまで、その力を異なる存在として見なすかどうか、そこに向き合う人の内面や主観に関わる問題である。

おそらく、「ある」と信じれば存在し、信じなければ存在しないような類いの力というものが私たちの中にはある。傷つき、疲れ、打ちひしがれた人が「再生」するためには、あるいはそのような力こそ必要なのかもしれない。振り返れば、そのように信じることができる場面に幾度か遭遇してきた記憶もある。

人が「再生」する道のりは決して平坦でも直線的でもない。立ち上がりかけては倒れ、もり上がりかけてはすり減り、歩きかけては座り込み、行きつ戻りつ、幾度も浮き沈みを繰り返す。まさしく「律動」のごとく同じことを繰り返す様子は、見ているだけで疲れ果てることさえあり、場合によっては当人の「再生」への力を疑いかねないこともある。しかし重要なのは、「その人に力があるかどうか」ではなく、「その人に力があると、傍らにいる私が信じるかどうか」なのであろう。少なくとも、そのように信じる者がいることで、はじめて存在し得る力がある。

このアート展に寄せられた作品も、物理的に突き詰めれば、紙と顔料の層である。この紙と顔料の層が、作者を「再生」へと導く「自己表現」に昇華するかどうかは、作者本人の問題であると同時に、観る人一人ひとりの問題でもある。もし会場で言い知れぬ感覚をおぼえる絵に出会ったら、是非とも、しばし足を止めてもらいたい。その絵に込められた作者の思いに、観る人が自由に想像をめぐらせること。その絵にはきっと大切な思いが込められているのだと、観る人自身が信じること。そのことが表現者にとって、かけがえのない力となるだろう。

「心のアート展」は、そのような力を生み出す場になってほしい。

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