これまでの展覧会

特集展示 池袋モンパルナス 心のアート展

1930年代-今から約90年前、まだ沼地の残った池袋にアトリエ付きの住宅が建ちはじめた。比較的家賃も安く、自分のアトリエを持てるという新興の住宅地内には全国から画学生や絵描きが集まり、たちまちアトリエ村が形成された。当時の池袋は上野、銀座から離れた「郊外」の始まりで、多種多様な文化・風俗が行き交っており、画家に限らず詩人・演劇関係者や留学生、海外からの帰国者など様々な人々を受け入れる地盤となった。この地に建つアトリエ付き住宅は、まさにこの混沌とした時代と空間の象徴であった。最終的に100棟以上の貸しアトリエが建設され、のべ500人とも、1000人ともいわれる芸術家が出入りしたという。

彼らは一心に創作へ打ち込み、互いの住まいを行き来して画論を戦わせたり、地元の喫茶店でグループ展やデッサン会を開くこともあった。夜になると池袋の街に繰り出し、未来の夢を語り合うなど自由闊達に意見を交わした。ここに暮らした詩人の小熊秀雄は、アトリエ村をパリの芸術の中心地・モンパルナスと重ねあわせ「池袋モンパルナス」と称した。現代のように情報が豊富でない時代において小熊は、ヨーロッパでもパリでもない池袋を、見事な感受性でモンパルナスと結びつけたのだった。

池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街に出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもな
ありあはせの神経を―。
小熊秀雄「池袋モンパルナス」『サンデー毎日』1938年7月

1930年代に入ると日本は戦争の影に覆われ、芸術家も戦地へ向かうこと、軍の競争協力画を描くことを命じられるようになった。なかにはこの渦中で、お互いのアトリエを行き来しながら「仕事」を続ける芸術家たちもいた。1940年に入ると池袋モンパルナスの中心人物であった小熊秀雄、長谷川利行が立て続けに亡くなったことを受け、アトリエ村は急速に終息へ向かっていく。度重なる応召や疎開で人口は激減、そして空襲で甚大な被害を受けたアトリエ村は1945年の終戦をもって一つの区切りを迎える。

戦後、空き家となったアトリエ村に空襲などで被災した人々が流入し、多くの芸術家は村を去った。しかし一部の前衛芸術家らのグループや、新たに入居した芸術家たちによってアトリエ村は新たな芸術運動の場になっていく。池袋モンパルナスというコミュニティは戦争の時代を生き抜き、彼らに芸術家であり続けることを力づけたのである。

「心のアート展」の出品作者たちは苦難苦境に直面しながら、他にかけがえのない自らを“癒やし”、支える心の杖として筆を執りつづける。彼らの生み出した作品はこの「こころのアート展」に展示され、観る人の視点や感性と交叉し、<観る・観られる>という固定された枠を超えて互いに歩み寄り、繋がり、拓かれていく。展示会場には毎回、幅広い年代層、様々な境遇の人々が行き交う。それぞれがこの場を求め、必要としているからこそ、接点が生まれ、新たな関係が生まれる。

池袋モンパルナスに住んでいた芸術家たちも、このような交流を繰り返していたのであろう。社会、時代の困難な課題をテーマにした取り組みによって、“創造の原点”を目指した池袋モンパルナスの歴史は、時代を超えて、アートの力、創造活動の本質・原点を、われわれに問いかけてくる。また武術専門の官展、画壇といった既存の美術の域にとらわれず、さらに一般民間の人もが一体となった、自由な美術活動であるアンデパンダン展と「心のアート展」の作者たちとは人間が誕生して以来、時代、民族、社会、そして一人ひとりの境涯を越えた創造活動の原点に「通底している」のではないだろうか。

時は2019年、現在も様々な文化や人々が行き交う池袋の街で「心のアート展」が開催されることが、芸術のように感ぜられる。なにかの縁起あっての接点、出逢いの場として、来場、鑑賞していただければ幸いである。

1931年の「すずめが丘アトリエ村」に始まる池袋モンパルナスのアトリエ住宅は、赤いセメント瓦に木壁という、素朴な作りをしていました。
アトリエ部分は15畳から18畳ほどで、安定した外光を取り入れるため北側に位置し、作品を搬入出するための大きな窓と天窓のついた、当時においてはモダンな作りをしていました。
一方で居室部分は3畳から4畳と狭く、部屋とキッチン、そしてトイレのみという、いたってシンプルなものでした。

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