これまでの展覧会

第8回 心のアート展

1968年以来、東京足立病院、丘の上病院、平川病院など、
いくつもの精神科医療施設で「自由な自己表現の場」である〈造形教室〉を創設、試行し続けてきた本展の審査員でもある安彦講平氏の半世紀以上にわたる足跡を紹介します。

  • 名倉要造『幸への黒い扉』油彩 162×130.3㎝ 2001年

  • 栗原葉子『タルコフスキー・母へのオマージュ』油彩 162×130.3㎝ 1993年

  • 本木健『韜晦』油彩 130.3×162㎝ 1999年

  • 石原峯明『落陽』オイルマーカー B3 1990年

  • 江中裕子『拘束』コラージュ 162×130.3㎝ 2004年

  • 〈造形教室〉の活動を記録したドキュメンタリー映画『破片のきらめき・心の杖として鏡として』監督・高橋愼二 2008年 カラー・80分

  • 集団制作『モナリザ分割共同画』ミクストメディア 270×234㎝ 制作年不明

  • 平川病院〈造形教室〉昼時の円卓風景_撮影・稲垣明

1.〈造形教室〉の誕生

安彦講平は1936年、岩手県平泉に生まれた。地元の高校を卒業した後、盛岡市の美術学校に通い、その後、早稲田大学で美学美術史を学んだ。在学中には『早稲田大学新聞』の活動に関わり、日米保安や沖縄の基地問題などに強い関心をもった。

1968年、安彦は東京足立病院(東京都足立区)にパートタイムの看護助手のような立場として勤務するようになる。配属された閉鎖病棟の畳の間に小さな卓袱台を据えて、絵に興味がありような人たちに声をかけ、共に手近に在る藁半紙に絵を描きはじめた。これがその後、半世紀以上にわたって続くことになる〈造形教室〉のはじまりであった。

近年では「芸術療法」や「アートセラピー」も普及し、治療やリハビリテーションのプログラムとして採り入れている病院も珍しくない。しかし、安彦が活動をはじめた当時は、こうした言葉さえ一般的ではなく、医療者たちも「そもそも精神病患者にまともな絵など描けるのか」「病状を悪化させることもあり得る」「ただのお遊びではないか」と話し、治療や病棟管理の妨げになることを懸念して、安彦の活動に対しては概して冷淡な態度だった。

2.精神科医療の改革

安彦が東京足立病院に勤めはじめた1960年代後半~70年代は、精神科医療においても大きな地殻変動が起きていた時期でもあった。

1968年にはWHOから派遣されたD.クラークが日本政府に対し、閉鎖的で収容的な精神科医療の在り方を強く批判し、地域医療を推進するための「クラーク勧告」を行った。

1970年には大熊一夫の『ルポ・精神病棟』が新聞に連載され、精神科病院の管理主義的な体質や、患者を省みない治療の在り方に批判が集まった。同じ時期、患者の側からも精神科医療への批判的な声が上がり、1974年には「全国精神病者集団」が結成された。「全国精神病者集団」は、精神科医療が患者を「危険因子」とみなし、社会防衛的で差別的な発想にもとづいた隔離主義を採っていることを批判し、患者の人権尊重を求めた。これに前後して、臨床の現場でも、志ある医療者たちが精神科医療の改革に向けて活発な議論を繰り広げていた。精神科病院の中で自由な自己表現の場を模索した安彦も、こうした時代の空気管から影響を受けたのであった。

3.〈造形教室〉の広がり

安彦が東京足立病院で活動をはじめてからほどなくして、〈造形教室〉はそれ以外の病院にも広がっていった。「丘の上病院」(東京都八王子市・1975~1995年)、「武蔵野中央病院」(東京都小金井市・1972~1986年)、「平川病院」(東京都八王子市・1995年~現在)、「かいメンタルクリニック」(沖縄県那覇市・1999年)、「袋田病院」(茨城県久慈郡・2001年~現在)。

中でも「丘の上病院」は、1969年という極めて早い時期から「24時間完全開放性」「多次元療法」の治療方針を掲げて注目を集めた病院で、芸術活動やレクリエーション活動を積極的に治療プログラムに採り入れていた。安彦が担当する〈造形教室〉にも多くの患者たちが参加し、絵画だけでなく、影絵や人形劇、タイルモザイクや分割共同画などの集団共同制作、身体表現や音楽など多彩な活動が行われた。安彦の歩みの中でも、特に重要な意味を持つ時間だったと言える。

1995年、丘の上病院は経営上の都合から惜しまれつつも閉院となった。その後、〈造形教室〉の存続を切望する患者たちの要望もあり、同じ八王子市内にある平川病院を新たな拠点として活動を再開した。

4.〈造形教室〉が目指すもの

安彦がその活動で一貫して目指してきたのは、「治療」や「教育」ではない「自由な自己表現」だった。上の立場の者から「与え」られたり「指示」されたりするのではなく、また誰かから「解釈」されたり「評価」されたりするのでもなく、一人一人が自らを〈癒し〉、自らを支えるための自己表現。それをなによりも大事にしてきた。

「私たちがめざし、試行してきたものは、いわゆる「教育」や「治療」のための、上から与えられ、外から解釈・評価されるような道具・手段としての描画ではなく、それぞれが自由に描き、身をもった自己表現の体験を通して、自らを癒し、支えていく。そのような「営みの場」である。」
(『“癒し”としての自己表現―精神病院での芸術活動、安彦講平と表現者たちの34年の奇跡』エイブル・アート・ジャパン、2001年)

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