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第5回 心のアート展

智恵子の場合

北川 太一

権威ある『精神医学事典』にも、かつて精神分裂病と呼ばれていたこの病いの原因は、「遺伝と環境とのあざなえる縄の如き関係の中で発生してくる疾患というしかない」と記されていて、はるか後の新版でもその事情は変わらない。しかしこの世に生を受けた人間に、遺伝と環境を持たない者があり得るだろうか。千変万化の捉えがたい可能性を実現するその表現から、人間のいのちの真実を追い求めようとして続けられて来た人々の果てしない努力は、その来し方、行く末を探る限りない意味を持つ。普通の人間と異常な人間の境界など、実は無いのかもしれない。

錯綜した家系の、時代の波にのったみちのくの俄か作り酒屋、その長女に生まれた智恵子は、自然や手仕事を愛する、運動好きの、機智に富んだ少女だった。しかし、上京して日本女子大学に進み、絵画に熱中し始めた頃の智恵子を初めて知った高村光太郎は、「彼女は異常ではあったが、異状ではなかった」と書く。入籍をかたくなに拒否しながら、アトリエに共に棲むまでの愛の経緯は、光太郎の詩集『智恵子抄』の大きく区切られた前半を見ればいい。アトリエで本を読んでいて光太郎の友人が訪ねて来た時も、ちらりと振り返っただけでそのまま読書を続けていた智恵子のエピソードを、江口渙が伝えている。はるか後になって、『智恵子抄』は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であったと術懐したその後半への導入部である。

油絵具克服への限りない苦悩、父の死、郷里の弟妹たちに次々に降りかかる悲運、実家の破産とその喪失、高村家の長男の入籍しない嫁の立場。そして自殺未遂。すでに日々は異状と呼ばざるを得ない。少しでも安らぎをと願って母のいた九十九里浜に試みた転地も、かえって症状を悪化させ、一年足らずで連れ帰った智恵子はすでにアトリエ療養の域を越える。その智恵子を紙絵制作に導いたのは、斎藤玉男が神経科を標榜するゼームス坂病院の15号室だった。精神病者の入院を主としながら、25部屋ほどのこの小さな病院は、通例に反してすべて開放、鍵なし、窓にも格子がなかった。限りなく色を塗り重ねられる油絵具についに満足しなかった智恵子が、ここで紙という素材の色彩や感触に出会ったことは、なんという幸いだったか。日毎に小さなマニキュア鋏を取り出して紙を切り、貼り重ねる繊細な作業の殆ど唯一の実見者、付添っていた姪の春子がその様子を記録している。

昭和13年10月5日、智恵子は53歳で亡くなった。死因は久しい肺結核だったが、光太郎にのみ見ることを許した紙絵は千数百点に及んだ。紙絵作品の存在を初めて世に示したのは昭和14年2月の雑誌『新風土』であったが、そこで光太郎は「これらがすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である」と書いた。しかし見るものがその耳に疑いもなく聞くのは、言葉を失った智恵子が光太郎に語りかける刻々の肉声に他ならない。紙絵を知った歌人斎藤茂吉は、打って返すように、そのあるものの、小さきものの命のありようを再現した光太郎の木彫作品との共通性を指摘した。紙絵の中に常に光太郎は共に生き、そのことによって智恵子はあらゆるものに光り輝く命を与え、語りかける声を与えた。

智恵子の紙絵を見るたびに考える。人間の生の蓄積の意味を。昇華と創造される表現の思いがけない抽象性、超常性、純粋性、発現性。そしてそのことに注がれ、しかと見届ける凝視者たちの無私の愛が、いのちの不思議につけ加える、人間の限界を突き貫くその可能性を。

ゼームス坂病院

そんなにもあなたは待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
(高村光太郎「レモン哀歌」一部抜粋)

高村光太郎(詩人・彫刻家:1883-1956)の妻・智恵子(洋画家:1886-1938)のことを、この「レモン哀歌」のフレーズと共に記憶される方は多いのではないでしょうか。この詩が収録された『智恵子抄』(1941年)は、光太郎から智恵子へと手向けられた、美しくも哀しい愛の讃歌と言えるかもしれません。

智恵子は46歳の頃から精神の変調をきたし、転地療養を試みたり、自宅にて光太郎の看病を受けたりしていました(智恵子が心を病むに至った状況については、北川太一氏の「智恵子の場合」をご参照ください)。しかし病勢の悪化は抑えがたく、意思の疎通さえできない狂躁状態が続くようになり、力尽きた光太郎は、智恵子49歳の時、彼女を南品川の「ゼームス坂病院」(現在の品川区南品川)に入院させることを決意します。以降、肺結核によって52歳で亡くなるまで、智恵子はこの病院の15号室で過ごしました。

智恵子が過ごした「ゼームス坂病院」は、1923(大正12)年春、精神科医の斉藤玉男(1880-1972)が独力で開設した神経内科の病院です。斉藤は1906(明治39)年に東京帝国大学医学部を卒業した後、日本における精神医学の創始者・呉秀三(東京帝国大学教授:1865-1932)の精神科教室に学び、その後アメリカ留学を経て、日本医学専門学校(現・日本医科大学)教授や巣鴨病院副院長などを務めました。

斉藤の師である呉は、精神病患者を人道的に処遇することを理念とし、巣鴨病院院長時代には、それまで厳然と行われていた患者の身体拘束を禁止するなど、様々な改革を行いました。呉と斉藤には長く確執もあったようですが、心を病んだ患者に対して人道的な処遇を行わなければならないという使命観や治療理念は、師弟の間に強く受け継がれたものと考えられます。

事実、斉藤が開設した「ゼームス坂病院」は、当時としては極めて異色の病院でした。まだ精神病への治療方法が確立していなかった当時、「精神病院」と言えば、精神病の「治療・療養」を目的とするよりも、むしろ精神病患者の「監禁・拘束」を行う場と言った方がふさわしく、そこに収容された人々の処遇も大変悲惨なものでした。

しかし「ゼームス坂病院」では、患者が自由に外出できる自由開放制がとられ、病室はすべて個室であり、通常の病院には備わっていた「鍵」も「鉄格子」もありませんでした。ただ、このような手厚い看護を行うために、同院の入院費用はかなり高額なものであったようです。

同院に入院した智恵子は、1937(昭和12)年頃から病室で紙絵の制作をはじめています。折り紙からはじまった制作は、その後マニキュア用のハサミを用いての精密な切り絵へと展開していきました。智恵子はいつも病室の決まった場所で紙を選び、時折お辞儀をしたり、独り言をつぶやきながら無心に紙を切り続け、できあがった作品は、見舞いに来た光太郎の他は、医師にも看病についた姪・春子にも見せなかったと言います。

こうして智恵子は15号室の中で、千数百点におよぶ切り絵を制作しました。斉藤医師は治療の一環として、患者たちに手作業を推奨したと言いますが、当時の精神医療の状況からすれば、患者が病室で自由にハサミ(刃物)を持つということ自体、他に類をみない希有な出来事であったと言えるでしょう。

その後、智恵子の切り絵は、光太郎や協力者たちの並々ならぬ尽力によって戦火をまぬがれ、現在にまで受け継がれました。智恵子にとって「切り絵」とは何だったのか。また光太郎にとって智恵子の「切り絵」はどのような存在だったのか。智恵子の死後、光太郎はそのことを象徴的に表す言葉を残しています。

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥ずかしそうなうれしそうな顔が忘れられない。(「智恵子の切抜絵」1939〈昭和14〉年)

智恵子が残した「此世への愛の表明」に是非とも触れてみてください。

参考文献

  • 北川太一編『智恵子 その愛と美』二玄社 1997年
  • 北川太一『智恵子相聞――生涯と紙絵――(改訂版)』蒼史社 2004年
  • 岡田靖雄『日本精神科医療史』医学書院 2002年

宮崎春子

智恵子の姪・宮崎春子。昭和10年、智恵子がゼームス坂病院に入院した後、看護婦の資格を持っていた春子に光太郎が請い、約2年間、智恵子の最後を看取るまで付き添い、看護にあたりました。紙絵制作の現場を知る、おそらく唯一の人物です。彼女の遺した文章『紙絵のおもいで』から、病室の様子を抜粋して紹介します。

〜病室は二階の階段のつきあたりに位置し、六畳の畳敷きの洋間で、ドアを入ると右側に一間の押し入があり、その横に小さな茶箪笥がある。東南に半間の上下開きの窓があり、各一尺幅の出窓がある。藤の肘掛椅子一つ、直径一尺の瀬戸火鉢一個あるのみである。
殺風景な部屋の天井から吊り下げられた千代紙の折り紙が十羽ほど色あせてゆれていた。それに並んで色紙で石畳にあんだものを六枚笠形にとじ合わせた紙灯籠が二十三個ぶら下がっていた。
私はそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれはてた寝姿を見ては泣いた、ただ神に祈った〜

〜いつごろから紙絵細工をはじめたかはっきりしないが、昭和十一年の終わりごろから、簡単なものを作りはじめていたように思う。
朝の洗面、髪もきちんと小さなまげにむすび、きつけも冬は大島の袷に銀ネズの繻すのだて巻をむすび、朝食がすんでしまうと一日の紙絵の製作がはじまる。押入の前にきちんと坐り、おじぎをしながらいろいろの色紙、アラビアゴム糊、七㎝ほどの長さの先の反ったマニキュア用の鋏、紙絵製作の素材道具を静かに取り出しはじめる〜

高村智恵子 略年譜

※北川太一,『智恵子相聞――生涯と紙絵――〈改訂版〉』,2013年,蒼史社,に基づき作成
1886(明治19)年 5月20日 父・齋藤今朝吉、母・センの長女として福島県安達郡に誕生。後に同郡で酒造業を営む長沼家の籍に父母と共に入籍。
1903(明治36)年 18歳 福島高等女学校卒業時、総代として答辞を読む。
日本女子大学普通科に入学。翌年、家政学部に進学。
1907(明治40)年 22歳 4月 日本女子大学家政学部を卒業。
太平洋画会研究所に通い、洋画家の道を志す。
1911(明治44)年 26歳 9月 平塚らいてう(平塚雷鳥)らによる女性雑誌「青鞜」の創刊号に表紙絵を描き、交流が続く。
12月 はじめて高村光太郎のアトリエを訪問。芸術を目指す同志として交流を深める。
1913(大正2)年 28歳 8月 光太郎と上高地に写生行。
智恵子、この頃から胸を病み始める。
1914(大正3)年 29歳 10月 光太郎、詩集『道程』を刊行。
12月 光太郎のアトリエで同棲がはじまり、上野の「精養軒」にて共棲の報告会が開かれる。
1918(大正7)年 33歳 5月 智恵子の父・今朝吉が死亡。裕福だった長沼家が傾き始める。
1929(昭和4)年 44歳 今朝吉没後、傾いていた長沼家が破産し、一家離散。
1931(昭和6)年 46歳 この頃から、智恵子に精神の変調がみられ始める。
1932(昭和7)年 47歳 9月 智恵子、睡眠薬による自殺未遂。
1933(昭和8)年 48歳 8月 光太郎・智恵子、婚姻届提出。
1935(昭和10)年 50歳 2月 智恵子、ゼームス坂病院に入院。
以降、亡くなるまで退院することはなかった。
1937(昭和12)年 52歳 智恵子、この頃から切り絵の制作を始める。
1938(昭和13)年 53歳 10月5日 智恵子、死亡。
死因は肺結核。光太郎、一人臨終に立ち会う。
1941(昭和16)年 8月 光太郎、詩集『智恵子抄』刊行。
1956(昭和31)年 4月2日 光太郎、73歳で没する。

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