これまでの展覧会

テキスト 心のアート展

「心のアート展」もことしで3回になる。ことしも応募作品を前にしてあらためて思うことは、通常の美術展における審査の基準というようなものは想定されないということである。ここに集まった作品は、心を病む人たちの声にならないぎりぎりの魂の叫びともいうべき「表現」であり、そこには評価や比較を差し挟む余地などはないのである。

現代社会は、評価や比較できないものは無意味で無価値としている。しかも、ここに集まった作品は芸術のための芸術でもなく、治療のための芸術でもないというのであるから、無目的ともいえる。

しかし、魂の真のありかを求める人たちは、近代社会が否定し捨象してきた無意味で無価値で無目的なものに、いま、新たな意味や価値や目的があることに気づきはじめてきた。この「心のアート展」は、そうした気づきを求める人たちに強いインパクトを与えるにちがいない。

回を重ねるごとに、応募作品が増え、内容も充実してきたが、なによりも嬉しいことは、表現者たちがたんに制作するだけでなく、出品することによって、他者との交感を体験し、あらたな自己を発見していっていることである。

自己表現は自己解放と一体であり、自己を解放すれば、自己を表現でき、自己を表現すれば、自己を解放できる。

ふつうのアートなら、その人個人の意欲とか才能でほぼ達成できるが、心を病む人たちの場合、自己表現の意欲や自己解放の欲求があっても、それを実現できる場がなければ表現に向き合うことは難しい。もともと素人でしかも病いを抱えている人たちにとっては、内なる魂の叫びを受け止め、その言葉にならない苦衷に寄り添い、その人なりの方向へと誘導してくれる支え手や仲間たちがなくてはならない。それは、それぞれの病院の理解者や付設アトリエのスタッフたちの存在である。そうした支え手や共感し合う仲間たちの隠れた情熱と労力によって、このような表現はうまれ、このような美術展を開くことができたのである。

それをもっともよく知っているのは、ほかならない表現者たちであり、したがって彼らが思いをつづった文章の中には、スタッフたちへの感謝と自分の居場所を与えられたことへの多幸感が率直に語られている。この美術展は、個人の成果を競い合うほかの美術展では到底考えられない濃密な人間関係によってつくられているのである。

今日、病んでいるのは病院へ通っている患者たちだけではない。盛り場をあてもなくさ迷う若者たち、日本を担っていると自負している経営者たち、じつは彼らこそある意味では体も心も深く蝕まれ壊されているのかもしれない。ここに作品を寄せた表現者たちこそ、むしろ現代社会の酸欠状態にもっとも敏感に真っ当に反応した魂の持ち主であるといえるのではないだろうか。

そうした今日、作品の受け手である私たちは、表現者たちの魂の叫びに揺さぶられ、隠れていた自己の暗部が抉り出され、未知の自己が白日のもとに掘り出され、ときに戸惑いときに共振する。この戸惑いと共振とによって、失われ忘れていた魂という落し物に気づかされるのである。

さらに会場での表現者と来場者とのトークやさまざまなイベントにより、たがいが自己を超え、異質な人間性と出会い、その俗なる場はひととき相互発見そして相互治癒の聖なるトポス(時空)へと変容していく。こうした内なるイニシエーション(移行)こそ、この「心のアート展」の究極の目的といえるのかもしれない。

このトポスをひととき共有し合った表現者と来場者とスタッフたちが、今までに体験したことのない、なにか熱いものを自分の深部に残すことができれば、それこそが私たち皆がひそかに探し求めていた新たな意味であり価値であり目的なのかもしれない。

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